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副塾長のコラム

「死を見ながら生きること」は、本当はとても豊かな時間。
母との別れから生まれた「肉体は他人」という視点で、日々の気づきを綴る学びの記録です。
「死をタブー視しない社会」を目指し死学講座を開校しています。
誰にでも必ず訪れる死を真剣に考えてみませんか?

母が亡くなった日、私は悲しみと安堵を同時に感じていました 2026.03.25

見出し画像母が亡くなった日のことを書きます。
そのときの自分の感情を残しておきたいと思います。
午前11時。
母は「救急車は呼ばないで」と、
最後の言葉を残しました。
それでも心拍は動いていたため、
救急車を呼ぶことになりました。
私は気が動転していて、
「救急ですか?消防ですか?」
という問いに、
「なんでもいいので来てください!」
と答えてしまったようで、
家の前には消防車も到着していました。
後から思えば、
それが人生で初めての119番でした。
そのときの私は、
何を聞かれていたのかも覚えていないほど、
ただ混乱していました。
その後、救急車に同乗し、
近くの病院へ運ばれました。
医師の方が、しばらく手を尽くしてくださいましたが、
結果は、すでに想像のつくものでした。
母は病院には通っておらず、
がんは全身に転移していました。
夕方、
すべての臓器の機能が停止しました。
その後、警察の方が来られ、
病死であるかどうかの確認などを受け、
私は帰宅しました。
家に戻ると、
いつもの
「お帰りなさい」という声も、
その姿もありません。
当たり前のことなのに、
どこか現実味がなく、
ただ、静かな空間だけがありました。
でも、不思議なことに私は
もっと涙が溢れて、
もっと悲しみに包まれると思っていたのに、
そうではありませんでした。
そのとき、
自分の中に“二つの感覚”があることに気づきました。
ひとつは、
母がいないことへの寂しさと悲しみ。
もうひとつは、
「もう楽になったんだ」
という、安堵にも似た静かな感覚でした。
今振り返ると、
前者は、肉体の意識であり、
後者は、本来の私の意識だったのかもしれないと感じています。
あの頃の私は、
今ほどではありませんが、
少しだけ、
死の意味を理解していました。
その理解をもって、
初めて見送ったのが、母の死でした。
だからこそ、
それまでに経験してきた「死」とは、
明らかに違う感覚だったのだと思います。
がんは、確かに死亡率の高い病かもしれません。
けれど同時に、
死と向き合い、
自分の人生と存在を見つめる時間を与えられるものでもあります。
そして家族や周囲の人にとっても、
その人を通して「死」と向き合い、
関係性を見つめ直す機会になるのだと感じました。
母の死を通して、私は
「死を見ながら生きること」が、
本当はとても豊かな時間なのではないか
そう感じるようになりました

コーンバターベーグルと、山に叫んだ日 2026.09.01

見出し画像今日、1年ぶりに、家から車で30分ほどのところにある大好きなベーグル屋さんへ赴いた。
それだけでもワクワクなのだけど、今日は、もう一つワクワクすることがあった。
1歳4か月にしてパンが大好きな娘と、初めて一緒にそのベーグル屋さんへ行くこと。
そのベーグル屋さんは、毎週ラインナップが違う。
今回、なぜ行こうと思ったのかというと――
なんと、娘の大好きな「コーンバター」のベーグルがラインナップされていたからだ。
お店に到着すると、娘の目がキラキラ輝いている
そして、なんと。
お目当てのコーンバターベーグルは、残り1つ!!!!
ギリギリセーフ。
レジでお会計をしているときから、娘の目はさらにキラキラ。
「パンパン!!!」
と、大声で指をさしている。笑
近くのセブンイレブンでアイスコーヒーを買って、お店の隣にあるコインパーキングへ早速戻った。
娘といると、いろいろな人が笑顔になって、声をかけてくださる。
私だけのパワーでは、ここまでたくさんの人を笑顔にはできないと思うと、娘の笑顔の破壊力は、本当にすごい!!!笑
早速、コーンバターのベーグルを娘にあげる。
息子もプレーンベーグルは好きなのだけれど、食の嗜好は主人のほうと似ていて、なかなか私の「大好き!」を共有することができなかった。
だから、私の大好きなベーグル屋さんのベーグルを娘と一緒に食べられることが、何よりの喜びだった。
ばくばく食べる娘。
食べる速度も半端ない!!!笑
もう我慢できなくなって、私も車の中で一緒に食べた。
もちろん、ベーグルがおいしいことも嬉しい。
でも、その「おいしい」を一緒に共有できることが、それ以上の、この上ない喜びになる。
私は、このベーグルを作ったわけではない。
でも、大好きなベーグルを一緒に食べて、
「おいしいね!」
って言える。
同じ瞬間に、同じ喜びを分かち合える。
これって、最高に幸せだなって思った。
でも、なんでこんなに嬉しいんだろう。
そう考えていたら、ふと思った。
自分の目の前にいる人が喜んでいる姿が、私の喜びなんだな、と。
しかも、おなかを痛めて産んだ娘。
つい最近まで、
おっぱいしか飲めなかった娘。
その子が成長して、今、私の隣でベーグルをほおばっている。
大切な、愛おしい娘が、喜んでいる。
そして、私が大好きなベーグル屋さんのベーグルを、一緒に食べている。
なんだか、どうでもいいことなのかもしれない。
誰かにとっては、ごく普通のことなのかもしれない。
でも本当は、
こういう「普通」の中にこそ、
幸せって、たくさんちりばめられているんじゃないかな。
いつでも、どんなときでも、自分にとっては、かけがえのない「今」だから。
大切にしたい。
改めて、そう思えた。
そんな思いを胸に帰路につき、高速道路を走っていた。
久しぶりの晴天。気持ちよく運転していたら、突然、こんな思いが湧いてきた。
「こういう気持ちになれたのも、私が自分の意識や、“今”の大切さを、死学によって知ることができたからなんだなぁ。
本当に感謝!!!
この死学という学びの素晴らしさを、もっとたくさんの人に知ってもらいたい!!!!!」
もう、叫びたくなった。笑
すると目の前に、遠くのほうまで続く、きれいな山並みが見えてきた。
その山にまで、伝えたくなった。
だから、車の中で叫んでみた。
なんだか、ものすごく嬉しくて、楽しくなった!!!
後ろに座っていた娘は、
そんな私の姿を見て、
ケタケタ笑っていた。
なんだかわからないけれど、
また、娘と喜びを共有できたような気がして、嬉しかった。
なんでもないとき。
特別ではない日。
そういう日を、もっともっと大切にしたい。
だって、そういう日が積み重なって、
いつか死ぬ日が来るから。
だから私は、
なんでもない「普通の日」を、スペシャルにしたい。
大好きなベーグルを買いに行った、たった往復1時間ほどの時間。
でも私にとっては、
娘と過ごした、
とびきりスペシャルな時間でした。

AIに人類が滅ぼされる前に、伝えたいこと。 2026.09.27

見出し画像最近、毎日のように、私のスマホにはAIに関する情報が入ってくる。
「AIが暴走する」
「AIが人類を滅亡させる」
「AIがハッキングを行う」
そんな、不安を掻き立てるような情報ばかりだ。
目にするたび、一瞬にして不安な気持ちが湧いてくる。
でも、そこで私は立ち止まる。
この「怖い」という意識は、
肉体を自分だと思うところから生まれているのではないか、と。
私は、どのような死に方であれ、
いつ死んでもいいように、
その準備を淡々とさせていただく。
今、人間が置かれている立場を、
実は人間自身がいちばん理解していないのではないかと思う。
人間は、「死」を最も嫌う現象のひとつとして捉えている。
私も、肉体を自分だと思っていた頃は、そうだった。
それが自分の中で大きく変わったのは、
「死学」を学び、
それを多くの人に伝えるようになってからだ。
死は、最高の感謝と喜びの瞬間である。
そう知ることができたからだ。
※これは自死を推奨するものではありません。自ら命を絶つことと、死をどう捉え、どう準備して生きるかということは、まったく別の話です。
そう考えるようになったとき、
私にとって「どう死ぬのか」は、
以前ほど重要ではなくなった。
人が死を迎える瞬間には、さまざまな形がある。
病気。
事故。
災害。
老衰。
そして世界には、戦争によって命を失う人もいる。
しかし今、私たちの前には、
これまでとはまったく異なる新しい可能性が現れている。
「AIによって、人類そのものが存続できなくなる可能性」だ。
それが実際に起こるのかは、誰にもわからない。
けれど少なくとも、
人類が自ら生み出した知能によって、
人類自身の存続が脅かされる可能性について、
真剣に議論する時代になった。
私は、そんな時代だからこそ、
人類は本気で「死学」を学ぶべきだと思っている。
どれだけ学校で勉強しても、
どれだけ知識を身につけても、
それらの多くは、この肉体で生きるための教養だ。
もちろん、それが必要ないと言っているわけではない。
興味があれば、いくらでも勉強すればいい。
好きなものを食べればいい。
行きたいところへ行けばいい。
やりたいことに挑戦すればいい。
でも私は、それ以上に大切なことがあると思っている。
その一瞬一瞬に、
「私は、自分の意識体を、
どれだけ自分の理想とする意識体へ近づける『今』を創造できたのか?」
ということ。
死んだあとに残るものがあるとするなら、
それは、唯一、自分自身の心によって創り出してきた
「自分自身の意識体」だと、私は考えている。
だからこそ、そこに興味関心を持てる自分になるための
自助努力が必要なのだと思う。
そうでなければ、
この世をただ「生きる」ことだけで終わってしまう。
そして結局、
死ぬことが怖いままになってしまう。
なぜなら、
「生きるため」だけに積み重ねてきたものの多くは、
肉体の死とともに失われるものだからだ。
地位も、
名誉も、
財産も、
肩書きも、
肉体も。
いつか失うものを増やすことだけに、
人生のすべてを使うのではなく、
「失わないもの」のために生きる。
そんな生き方が、
今こそ必要なのではないだろうか。
私は、AIによって人類が滅亡する未来が来るのかどうかはわからない。
来ないかもしれない。
そして、願わくば、AIと人類が共存共栄共生できる地球になったらいいと思っている。
それでも、
人類が初めてその可能性と向き合い始めた今だからこそ、
私は一人でも多くの人に、このことを伝えたい。
「いつ死ぬかわからない」ことは、
AIが登場するずっと前から変わっていない。
だから、問いたい。
肉体という、
「他人の、他人による、他人のための人生」を、もうやめて、
本当の意味での、
「自分の、自分による、自分のための人生」を、
送りませんか?
――――――――――
「死」を学ぶということ。
死学は、死を怖がらないためだけに学ぶものではありません。
いつか必ず訪れる自分自身の死に向けて、
「私は、何を準備して生きるのか」。
そして、
肉体のためだけではなく、
本当の自分自身のために、
今日という「今」をどう創造していくのか。
そのことを、一緒に考え、学ぶのが「死学講座」です。
AIによって世界が大きく変わろうとしている今だからこそ、
一度、自分自身の「死」と真正面から向き合ってみませんか?
死を遠ざけるのではなく、
死を知り、死を準備する。
その先に、
これまでとはまったく違う「今」が見えてくるかもしれません。

「今」を、無意識に生きていませんか? 2026.09.21

見出し画像死学を通して、
無意識を有意識へと変えていく。
必ず訪れる「死」を、
最高の瞬間にするために。
今日の「今」から、
意識して生きてみませんか?
***
ここまで読んでくださって、
「死学について、もう少し知ってみたい」
「自分自身の死について、きちんと考えてみたい」
そう感じてくださった方へ。
私たちは定期的に「死学講座」を開催しています。
死は、いつか必ず訪れる、
私たち全員に共通する未来です。
だからこそ、
その瞬間を迎えるまでの「今」を、
どう意識し、どう生きていくのか。
死学講座では、「死」をただ怖いもの、悲しいものとして捉えるのではなく、
自分自身の死と向き合いながら、
その目的について学んでいきます。
ご興味のある方は、ぜひ一度、
死学に触れてみてください。

わたしの、わたしによる、わたしのための「今」 2026.09.09

見出し画像あなたは、自分自身のことを、どのように評価していますか?
人は常に、他人に評価されながら生きています。
そして、その評価を獲得するために生きている人も、少なくないように思います。
地位や名誉、財産。
どんな車に乗っていて、
どんな家に住んでいて、
どんな子どもがいて、
どんな妻、夫と過ごしていて、
どんな服を着ていて、
どれほどの知識を持っているのか。
社会に出てから私は、嫌というほど、
そうした「他者からの評価」が人間の価値を決めているかのような世界を見てきました。
そして、人間は多かれ少なかれ、
他人からの評価を気にしながら生きているのではないか。
私はそう思っています。
でも、その中で他人と自分を比べて、
自分という存在をぞんざいに扱ってはいないでしょうか。
私自身も、パラレボ理論、そして死学に出会うまでは、
ずっと、そのような「他者評価獲得競争」の中で生きていました。
人にどう思われているんだろう?
どう思われるかが、私の評価につながる。
そして、その評価によって、自分の人生が決まっていく。
そんな生き方に疲れ果て、
私は社会人になってわずか4か月で、体を壊しました。
ストレスからくる、尾てい骨の痛みでした。
なすすべもなく、
何もすることができず、
ただただ寝ているだけの生活。
でも、そのときに死学に出会い、
私は初めて、「自分」という存在を見つめることになります。
「あなたと同じ人は、この世界のどこにいるの?」
「あなたという存在は、こんなに広い宇宙の中で、唯一無二の存在なんだよ」
その言葉に、私はものすごく感動しました。
そして思ったのです。
私はなんて、自分の価値を無責任な他者に任せて、
自分という存在をぞんざいに扱いながら生きてきてしまったんだろう。
自分をよくするのも、悪くするのも、他人じゃない。
自分なのに……。
そう思ったら、涙が止まらなくなったことを、今でも覚えています。
みなさんは、自分のことを大切にしていますか?
他者の目や評価のために、生きてはいませんか?
そして、あなたが生きている「今」という瞬間。
それは人生において、
「唯一無二の、かけがえのない、最も価値ある瞬間の私」
なのです。
ところが、「肉体は自分」という意識で生きていると、
1時間後も、3時間後も、
今日の夜も、明日も、1年後も、
まるで当たり前に存在しているかのように思ってしまう。
そんな保証、どこにもないのに……。
だからこそ、
今という瞬間の価値を見失い、
「今」を価値のないものとして過ごしてしまう。
私は、それこそが一番の「自傷行為」ではないかと思うのです。
一人でいようが、
嫌な人といようが、
家族といようが、
最高の場所に身を置いていようが。
楽しく過ごすのか。
悲しく過ごすのか。
嬉しく過ごすのか。
怒りの中で過ごすのか。
すべて、自分の意識次第です。
最も価値のある人生にするためには、
最も価値のある人生の最期である「死」を迎えること。
では、いつ訪れるかわからない死を、
最も価値のある瞬間にするためには、どうすればいいのか。
毎日、毎瞬、
「今」を最も価値のある瞬間にするしかない。
私はそう思っています。
わたしの、
わたしによる、
わたしのための「今」を。
そして、その「私」とは何なのか。
「肉体は他人」。
肉体の欲望を体現することが、
本当の私を幸せにすることではありません。
本当の私の心を、
うれしい。
たのしい。
幸せ。
そして、感謝と喜びに方向づけていく。
そこ一点です。
誰かに評価されるためではない。
誰かより優れていることを証明するためでもない。
誰かに認めてもらうためでもない。
私が、私のために。
雲ひとつない、晴れ晴れとした、
唯一無二の、
かけがえのない、
最も価値のある「今」を、
私自身が創造していく。
その積み重ねの先に、
最も価値ある人生の最期としての「死」がある。
そんなことを、
多くの人たちに、そしてAIにも、伝えたい。
そんな気分の今日です。

「肉体は他人」という、無血革命 2026.08.16

「肉体は他人」を、心底感じる日々を送っている今日この頃です。
「人の振り見て我が振り直せ」ではありませんが、人の行動を見ていると、行動人間学とも言うべきものから、いろいろなことが見えてきます。
カフェで作業をしているとき。
一人でぼーっと外を眺めているとき。
行き交う人たちを見ながら、ふと思うのです。
人間は、本当に多くの時間を「欲望を叶えるため」に使っているんだな、と。
努力することもそう。
何かを手に入れたい。
認められたい。
もっと豊かになりたい。
もっと幸せになりたい。
その努力の多くが、結局は「肉体の欲望を体現すること」に向かっている。
一方で、「自分の心を育てる」ということには、なかなか意識が向かない。
それはきっと、私たちが当たり前のように「肉体が自分」だと思って生きているからなのだと思います。
だから、「自己実現」という言葉でさえ、ともすれば肉体の欲望を実現することになってしまう。
けれど、肉体の世界で得られる喜びは、すべて一過性です。
欲しかったものを手に入れても、また次のものが欲しくなる。
夢が叶っても、また次の夢が生まれる。
幸せを感じても、その幸せが永遠に続くわけではない。
それは、肉体そのものが永遠ではないからです。
だからこそ私は、「死」の価値が正しく理解されることが、とても大切なのだと思っています。
死を知らなければ、私たちは人生という時間を、欲望を具現化するために使い続けることになる。
でも、
「肉体は他人」
だと知ると、すべての意識が変わってくる。
肉体の欲望を満たすことではなく、自分自身を慈しむこと。
自己慈愛。
自己受容。
自己確信。
それらを育てながら生きていくことで、最後の「死」という瞬間に、すべてを自己完結することができる。
そう考えたとき、
人生における「最悪の瞬間」と思われてきた死が、
「最高の瞬間」へと変わっていく。
肉体が自分だと思って生きていると、悩む。
苦しむ。
思い通りにならない。
不自由を感じる。
けれど死の瞬間、肉体からはすべて解放される。
では、そのとき、自分の意識の中に何が残っているのか。
肉体は他人なのに、肉体を自分だと思い続けて生きていたら、欲望まで「自分」になってしまう。
欲望でいっぱいになった意識のまま、自分の世界へ行くことになる。
私にとって、これは死活問題です。
だから私は、生きている今日という日に、
「うれしい」
「たのしい」
「しあわせ」
「感謝」
「喜び」
を、自分の中からどれだけ生み出せるかを大切にしたい。
肉体の欲望によって得られる喜びではなく、自分自身から生み出せる感謝と喜びを育てていきたい。
死ぬための準備を、今日もする。
それは言い換えれば、
「自分の世界へ行くための準備」
なのだと思っています。
そして最近、よく考えます。
もし、このことを世界中の人たちが知ったら、世界はどんなふうに変わるのだろう、と。
私の理想は、いつもそこにあります。
世界中の人々が「肉体は他人」を知り、死は最高の感謝と喜びなのだと気づくことができたなら、世界は今すぐにでも、争うことをやめられるのではないか。
なぜなら、
「肉体の欲望は、自分ではない」
と理解できるからです。
先日、夫と話し合いをしました。
いろいろなことに対する認識や、コンセンサスのずれが重なっていたからです。
これまでの私は、
「これくらい、私が我慢すればいい」
と、その場を収めてきたことが何度もありました。
でも、それは結局、「肉体が自分」という意識の中での、その場しのぎだったのだと思います。
全く違う環境で育ってきた夫と私。
男性と女性という違いもあり、子どもを育てていれば、当然、意見が分かれることもあります。
では、その違いをどうやって埋めるのか。
そこで私たち夫婦にとって共通言語になるのが、
「肉体は他人」
「死は最高の感謝と喜び」
というパラレボ理論でした。
「人生の目的」を共有すると、不思議なくらい見える景色が変わります。
私は、
「私が我慢すればいい」
という肉体の意識から解放される。
夫も、自分を正当化することで生まれる被害者意識から解放される。
肉体と肉体の欲望から、お互いが少しずつ離れていく。
するとようやく、
「夫」という肉体と「妻」という肉体ではなく、
本当の夫と、本当の私で話すことができる。
そして、
「ごめんなさい」
と、お互いに言える。
そのとき、ふと思いました。
これを世界中の人ができたら、世界は変わるのではないか、と。
国家と国家も、民族と民族も、宗教と宗教も、その前にいるのは一人ひとりの人間です。
世界をつくっている最小の単位をたどっていけば、家庭があり、夫婦があり、そして最後には「自分」がいる。
夫婦という最小のコミュニティさえ変わらないのに、世界だけが突然変わることはない。
だから私はやっぱり、
「肉体は他人革命」
という無血革命でしか、世界に横たわるカルマやカオスは、本当の意味では解決しないのではないかと思っています。
誰かを倒す革命ではない。
誰かと戦う革命でもない。
何かを奪い取る革命でもない。
自分の中にある「肉体が自分」という当たり前を、ひっくり返す革命。
そして、それによって、、欲の社会から愛の社会に変えていく革命でもあります。
世界を変えたいのなら、まず夫婦から。
夫婦を変えたいのなら、まず自分から。
世界の平和は、どこか遠くにある大きな話ではなく、
今日、まずは自分に謝って、目の前にいる人に「ごめんなさい」と言えることから始まるのかもしれません。
まずは、自分から変わろう。
私にとって「肉体は他人」とは、世界を変えるための思想であると同時に、自分自身を変えるための、日々の実践なのです。
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